大隈鉄工所事件(退職の撤回)

大隈鉄工所事件 事件の経緯

日本民主青年同盟(民青)の加盟員である従業員は、同じ民青加盟員の同僚Aと共に、会社内で民青の活動を非公然に行っていたのですが、ある日、同僚Aが会社の寮に帰らないまま失踪しました。

その翌日に、人事担当者が同僚Aの部屋を調べたところ、民青に関連する資料を発見しました。従業員の氏名が記載された資料があったため、人事部長は会社の応接室に従業員を呼び出して、同僚Aの失踪に関する事情聴取を行いました。

事情を聴取している最中に、従業員は退職を申し出ました。人事部長は民青の加盟員であることを理由に退職する必要はないと伝えて慰留しましたが、従業員は聞き入れないで、その場で、退職届に必要事項を記入して、人事部長に提出しました。

その翌日になって、従業員は退職届を撤回するよう申し出ましたが、会社は拒否をして、退職の手続きを完了しました。

これに対して従業員は、退職の意思表示は錯誤又は強迫によるもので取り消すことができると主張して、従業員としての地位が存在することの確認を求めて、会社を提訴しました。

大隈鉄工所事件 判決の概要

原審は、人事部長が人事管理の最高責任者であるとして、その人事部長が従業員の退職届を受理した事実を認めながら、その受理をもって、従業員の解約の申込みに対して、会社が承諾の意思表示をしたとは言えないと判断した。

その理由は、「従業員が入社する際は、筆記試験の他に面接試験を行い、副社長、取締役2名、人事部長の計4名がそれぞれ質問をして、その結果を総合して採用を決定した。この事実と対比すると、従業員が退職する際も、人事管理の組織上一定の手続を経て、会社の承諾の意思が形成される。したがって、人事部長の職にあったとしても、その個人の意思のみによって、会社の意思が形成されたと認めることはできない」というのである。

原審の判断は、従業員の採用の決定と退職の承認が、会社の人事管理上、同一の比重であることを前提としているが、そのような前提は成立しない。

従業員の採用は、その者の経歴、学識、技能、性格等について、会社に十分な知識がない状態で、会社に有用と思われる人物を選択するものであるから、人事部長に採用の決定権を与えることは必ずしも適当ではないと考えられる。

これに対して、従業員の退職は、その者の能力、人物、実績等を掌握できる立場にある人事部長に、退職による利害得失を判断させて、単独で退職を承認する権限を与えたとしても、経験則上不合理なことではない。

したがって、従業員の採用の手続きから推し量って、人事部長の意思のみによって、退職を承認するという会社の意思が形成されたと認めることはできないとした原審の判断は、経験則に反する。

また、会社の所定の退職届の決裁欄は、人事部長の決裁が最終となっていて、会社の職務権限規程には、人事部長の職務権限として、課長以上の者を除く従業員の退職届の承認は、社長、副社長、専務、取締役との事前協議を経ることなく、人事部長が単独で決定できることが定められている。

従業員の退職について、人事部長に承認の決定権があるなら、人事部長が退職届を受理したことをもって、従業員による雇用契約の解約の申込みに対して、会社が承諾の意思表示をしたものとして、雇用契約の合意解約が成立したと考えられる。

これと異なる前提に基づいて、人事部長による従業員の退職届の受理は、解約の申込みの意思表示を受領しただけで、会社が承諾の意思表示をする前に、従業員が解約の申込みを撤回したとする原審の判断は、是認できない。

この点について、更に審理を尽くさせるため、原審に差し戻すのが相当である。

大隈鉄工所事件 解説

従業員が会社に退職届を提出して、その翌日に撤回を求めたのですが、会社が拒否をして退職の手続きを完了して、トラブルになったケースです。一旦、会社に提出した退職届を撤回できるのかどうかが争点になりました。

民法第627条(期間の定めのない雇用の解約の申入れ)によって、従業員は自由に退職できることが定められています。

「当事者が雇用の期間を定めなかったときは、各当事者は、いつでも解約の申入れをすることができる。この場合において、雇用は、解約の申入れの日から2週間を経過することによって終了する。」

従業員が退職する際は、会社に対して退職の意思表示(解約の申入れ)を明示する書面として、通常は退職届を作成して、会社に提出します。

例えば、営業部員の従業員が直属の上司である課長に退職届を提出したとしても、課長は一般的には民法上の“当事者”には該当しませんので、その時点では“当事者(会社)”に対して、退職の意思表示をしたこと(解約を申し入れたこと)にはなりません。退職はまだ成立していませんので、撤回は可能です。

その後、“当事者(会社)”に、その意思表示(退職届)が到達すれば、その時点で退職が成立しますので、それ以降は従業員が一方的に撤回することはできません。

民法上の“当事者(会社)”は誰なのかということになりますが、この裁判では、「従業員の退職による利害得失を判断できる者として、各従業員の能力、人物、実績等を掌握できる立場にある人事部長」は、これに当てはまると判断しました。

具体的な役職は各企業によって異なりますが、「従業員の退職による利害得失を判断できる者」というと、一般的には、採用の最終決定に影響力があるような人事管理の責任者や取締役が該当すると考えられます。その退職を承認する権限のある者が退職届を受理すれば、退職が成立します。

しかし、その場合でも、心裡留保、錯誤、詐欺又は強迫によって行った意思表示は、民法によって無効になり、又は取り消すことができます。

心裡留保は、例えば、従業員が退職する意思がないにもかかわらず、反省の態度を示すために、会社に退職届を提出して、会社も退職する意思がないことを知っていたような場合です。

錯誤とは、例えば、従業員が解雇されると勝手に思い込んで、それを避けるために退職届を提出したけれども、実際には解雇事由がなかったような場合です。

詐欺又は強迫とは、例えば、会社が従業員に対して、実際には解雇事由がないにもかかわらず、退職届を提出しなければ解雇すると、騙したり、脅したりして、従業員が退職届を提出したような場合です。なお、実際に解雇事由があって、解雇の可能性がある場合は詐欺又は強迫には該当しません。